ゴミ捨て場で刺激を受けた初日から2週間半僕たちはグアテマラで暮らし、いろいろな人に出会って、様々なことを経験して、汗と涙のボランティア活動を した。この経験は僕たちが持っていた小さい世界観を崩した。3年前(1996)にやっと終わった14年間の内乱を生き延びた国民たちが一生懸命生きて いる姿と、どんな不利な状況を乗り越える志を持った人々の印象は目と心に刻まれた。僕の世界観は変わった。
どのように変わったというと:
1:Part 1に書いたように、どんなに時間がかかっても、どんなに損することがあっても、他人、特に子供と関わり、良い影響を与えようとする覚悟と志を得た。でも、覚悟と言って も、恵まれた環境で育った人間が持つような生易しい覚悟ではない。もちろん恵まれた環境で生きてても皆苦労するし、悪いこともある。それを軽く見ない。でも、平和な日 々を過ごしている僕たちの欲望の達成邪魔するものと、世界の大半の人の生活を脅かすものとでは、格が違う。
世界では、今週はいつ食べられるのかと悩む人たち、今 日買い物に行くとテロの爆弾で死ぬかもと恐れるイラク人。今日の一日が最後かもしれない状況で必死に生きようとする人たち。この人たちは死ぬ覚悟で一生 懸命生き延びようと戦っている。
グアテマラの人たちもこの覚悟で生きていた。それに比べると僕の覚悟は弱いなと思った。そして、自分の弱 い覚悟をグアテマラで捨てて、恵まれた、平和な生活に戻っても、グアテマラの人たちの覚悟を心に刻み、一生懸命その覚悟に応じるように生きるようと 決心した。それからの11年間は成功したときより失敗したときの方が多いかもしれないけど、僕は諦めず毎日一生懸命戦っている。
続きは後 ほど
2010年6月28日
2010年6月26日
僕の世界を変えたボランティア経験 Part 1
僕は中学の頃から色々なボランティア活動をやって来ました。この様々な経験で僕は色々な人と出会い、関わり、この人たちの話を聞きました。この様々な出会いと経験に影響され、僕の人生は少しずつ変わりました。僕のボランティア経験の中で、人生に一番大きく影響したのは高校3年の夏に起きたことでした。その夏、僕は2週間半グアテマラでボランティア活動をしました。そこで僕の目と心に刻まれたことを皆さんに伝えたいと思います。
活動初日、グアテマラの首都、グアテマラシティー内を車でツアーをしました。途中で高い壁に囲まれたお金持ちや政治家や外交官が住んでいるゲートを付いたコミュニティーを見ました。それから、車で10分も経たない内にグアテマラシティーのゴミ捨て場に行きました。ゴミの山の中に人や段ボールとかで作らて家を見ました。ガイドさんの話によると市民の大勢(何パーセントかは覚えてないけど、50%は超えてた気がする)がこのゴミ捨て場に住んでいたそうです。目の前にゴミの中から売れる物を探している大勢の人々のイメージか心が痛みました。
活動初日、グアテマラの首都、グアテマラシティー内を車でツアーをしました。途中で高い壁に囲まれたお金持ちや政治家や外交官が住んでいるゲートを付いたコミュニティーを見ました。それから、車で10分も経たない内にグアテマラシティーのゴミ捨て場に行きました。ゴミの山の中に人や段ボールとかで作らて家を見ました。ガイドさんの話によると市民の大勢(何パーセントかは覚えてないけど、50%は超えてた気がする)がこのゴミ捨て場に住んでいたそうです。目の前にゴミの中から売れる物を探している大勢の人々のイメージか心が痛みました。
2010年6月24日
ボランティアの大切さ
ボランティア活動とは基本的に人の生活を無償で手伝うことです。これは様々な形で行うことになりますすが、すべて、対象とする人たちを手伝ったり助けたりするのです。アメリカではホームレスのシェルターに行って食べ物を作って配ることができる。寄付された食べ物の倉庫に行って整理する。子供のスポーツを手伝う。もっと大きく考えると他の国に行って家を建たり、何かの援助活動をする。ボランティア活動を経験した人に聞くと、自分が手伝えたことより得たことが多かったと言うでしょう。
では、人間、特に子供にはどうしてボランティア活動が必要だと思いますか。 子供は大人ではないからできることが少ないと思いますか。僕は、それは関係ないと思います。子供はどんなに小さくても誰かを手伝えるし、助けられると思います。子供はこの経験で得られることが子供の人生に大きく影響すると思います。子供が得られることは、次も3つに大別できると思います。
では、人間、特に子供にはどうしてボランティア活動が必要だと思いますか。 子供は大人ではないからできることが少ないと思いますか。僕は、それは関係ないと思います。子供はどんなに小さくても誰かを手伝えるし、助けられると思います。子供はこの経験で得られることが子供の人生に大きく影響すると思います。子供が得られることは、次も3つに大別できると思います。
2010年6月22日
我慢&Empathy
人間は生まれたときから自己中心的です。赤ちゃんや子供を見るとそれが良く分かります。自分が世界の中心で、全てが自分の為にあると思って行動しています。これは子供には当たり前な事ですが大人には良くない性質だと思われています。
では、どうやって子供達は大人になるまでに変わるのでしょうか?このことについては、日本とアメリカの考えはある程度、似ていると思います。その考えは「我慢」と「Empathy」の2語で要約できると思います。
我慢と言っても、我慢は日本とアメリカではちょっと違う意味を持ちます。その違いを簡単に言うと「何の目的で我慢しているか」です。日本では我慢は家族や会社や団体の為に自分の自己中心な欲望を抑えることだと思います。自分を抑えて団体の平和を乱さない。これが立て前の役目ではないのでしょうか? アメリカではこれはちょっと違うと思います。アメリカでは団体責任とかの考えもありますが、個人主義がもっと強調されているので、我慢は「自分の欲望を満たすのを先送りする」意味を持っていると思います。今自分の欲望を抑えたら後でもっと良いことが起こるよ。後で欲望がかなうと待った分満足するよ。この考えは日本にもあると思いますが日本では団体責任が個人より強調されます。
では、どうやって子供達は大人になるまでに変わるのでしょうか?このことについては、日本とアメリカの考えはある程度、似ていると思います。その考えは「我慢」と「Empathy」の2語で要約できると思います。
我慢と言っても、我慢は日本とアメリカではちょっと違う意味を持ちます。その違いを簡単に言うと「何の目的で我慢しているか」です。日本では我慢は家族や会社や団体の為に自分の自己中心な欲望を抑えることだと思います。自分を抑えて団体の平和を乱さない。これが立て前の役目ではないのでしょうか? アメリカではこれはちょっと違うと思います。アメリカでは団体責任とかの考えもありますが、個人主義がもっと強調されているので、我慢は「自分の欲望を満たすのを先送りする」意味を持っていると思います。今自分の欲望を抑えたら後でもっと良いことが起こるよ。後で欲望がかなうと待った分満足するよ。この考えは日本にもあると思いますが日本では団体責任が個人より強調されます。
2010年6月20日
僕のホームレスの経験
僕はシアトルの小さい私立大学に行きました。この大学の1つの目標は社会正義に関する教育でした。その為に色々なボランティア体験を生徒に与えようとしてました。その1つの体験はホームレス体験でした。シアトルに行ったことある人はご存知だと思いますが、ホームレスが結構大きな社会問題になってます。シアトルの中心部で買い物していると絶対物ごいをしているホームレスの人を見かけます。僕はこの人たちを無視して通り過ぎたこともあるし、お金をあげたこともある、でもこの人たちの状況を知ろうとしなかった。そこで、大学3年の冬に、この体験があると聞いてすぐ申し込みをしました。そして、冬休みの3日間、家に帰らずホームレスになりました。
この経験に参加する大学生は3人チームに分かれられました。服は始まる時に着れるだけのふくとリュックサック1つでした。2泊3日の間、1人1人は$2(約200円)だけ持って行けました。ホームレスと言っても、安全の為、そして本当のホームレスの人たちからシェルターのベッドを取らないように、寝る場所は確保されてました。でも夜10時までそこには行けず、朝5時ぐらいには出なくてはいけなかった。男子は1ヶ月前からひげを剃らないようと指示されていました。食べ物はホームレスみたいに自分たちで確保しなくてはいけませんでした。皆合流する時は1日1回ぐらいでホームレスの為の施設に集まり、そこがホームレスのために何しているかを学びました。他の時間はホームレスと話し合ったり、歩き回ったりしてました。僕のグループはしなかったけど、物ごいをグループもいました。
この経験に参加する大学生は3人チームに分かれられました。服は始まる時に着れるだけのふくとリュックサック1つでした。2泊3日の間、1人1人は$2(約200円)だけ持って行けました。ホームレスと言っても、安全の為、そして本当のホームレスの人たちからシェルターのベッドを取らないように、寝る場所は確保されてました。でも夜10時までそこには行けず、朝5時ぐらいには出なくてはいけなかった。男子は1ヶ月前からひげを剃らないようと指示されていました。食べ物はホームレスみたいに自分たちで確保しなくてはいけませんでした。皆合流する時は1日1回ぐらいでホームレスの為の施設に集まり、そこがホームレスのために何しているかを学びました。他の時間はホームレスと話し合ったり、歩き回ったりしてました。僕のグループはしなかったけど、物ごいをグループもいました。
2010年6月19日
ホームレスの現状
日本ではどの大都市に行っても見つかります。よく見ると線路の下や公園にある段ボールの家や外見で分かるホームレスの人たち。皆さんが最初にホームレスの人を見た時を思い出してください。皆さんはどんな反応をしましたか?日本では知りませんがアメリカでホームレスを見る時はこういう反応が普通だと思います。
「なまけもの、早く仕事しろ」
「中毒者なんて手伝うもんか」
でも、一番ひどい反応はその人たちの存在を認めず歩いて行く人たち。ホームレスの人たちが助けを求めているのに自分の生活に関係ないから無視する。日本人の反応はこれと同じなのでしょうか?
アメリカでは、ホームレスに対してこのような反応が示される原因は教育です。アメリカ一般人はホームレスに関して何も知らないからその人たちを人間以下だと考える。特に日本で、政府が国民や世界からホームレスの問題を隠そうとする。日本ではホームレスに対する教育は全くありません。ホームレスは世界的な問題であり、解決するにはまずそれが社会全体の問題であると認めなくてはならない。アメリカの政府や一部の人たちはこれを認め始めました。日本もそうなるのでしょうか?でも、その前にホームレスの現状を知らないといけない。
「なまけもの、早く仕事しろ」
「中毒者なんて手伝うもんか」
でも、一番ひどい反応はその人たちの存在を認めず歩いて行く人たち。ホームレスの人たちが助けを求めているのに自分の生活に関係ないから無視する。日本人の反応はこれと同じなのでしょうか?
アメリカでは、ホームレスに対してこのような反応が示される原因は教育です。アメリカ一般人はホームレスに関して何も知らないからその人たちを人間以下だと考える。特に日本で、政府が国民や世界からホームレスの問題を隠そうとする。日本ではホームレスに対する教育は全くありません。ホームレスは世界的な問題であり、解決するにはまずそれが社会全体の問題であると認めなくてはならない。アメリカの政府や一部の人たちはこれを認め始めました。日本もそうなるのでしょうか?でも、その前にホームレスの現状を知らないといけない。
2010年6月15日
日本の里親制度
日本の児童福祉制度の中の社会的養護体系は2つに分かれています。1つ目はこの前書いた施設養護です。もう1つは家庭的養護でそれは主に2つ、養子縁組と里親、に分かれています。養子縁組はまた後ほどの話題として、今日は里親制度に関して書きたいと思います。
最初に「里親」とは何でしょうか?
里親制度によると里親は「保護者のない児童、又は保護者に監護されることが不適当であると認められる児童を養育する里親として認定を受けたもの。」すなわち、里親は他人の子供を自分の家で預かって育てることです。里親は預かった子供は実の子供でなくてもりっぱに育てようとする立派な人たちです。子供が心にどんな傷があっても、それを受け入れ、できるだけ普通な生活を与え、その傷をいやす立場に立つのです。
里親の役割
里親制度によると、役割は3つあります。
(1)「子供との間に基本的信頼関係を形成する」
(2)「親や家族のモデルを学ぶこと」
(3)「生活の質の深さを与える」
上記で里親に預けられる子達はこの経験できないからではないでしょうか?施設でもこの役割をある程度はたせると思いますが、子供が必要な程度までは与えられません。だから里親は社会が与えられない経験を子供達に与える。3つとも大切だと思いますが、特に2番は施設では学べないと思います。子供は親と家族との生活で自分が親になった時のモデルを学びます。親は子供自身の将来の姿に大きい影響を与えます。しかし親となる為のモデルがなかったり、大人との信頼を育てる機会がない子達は社会や他人と信頼関係持つことができるのでしょうか?
最初に「里親」とは何でしょうか?
里親制度によると里親は「保護者のない児童、又は保護者に監護されることが不適当であると認められる児童を養育する里親として認定を受けたもの。」すなわち、里親は他人の子供を自分の家で預かって育てることです。里親は預かった子供は実の子供でなくてもりっぱに育てようとする立派な人たちです。子供が心にどんな傷があっても、それを受け入れ、できるだけ普通な生活を与え、その傷をいやす立場に立つのです。
里親の役割
里親制度によると、役割は3つあります。
(1)「子供との間に基本的信頼関係を形成する」
(2)「親や家族のモデルを学ぶこと」
(3)「生活の質の深さを与える」
上記で里親に預けられる子達はこの経験できないからではないでしょうか?施設でもこの役割をある程度はたせると思いますが、子供が必要な程度までは与えられません。だから里親は社会が与えられない経験を子供達に与える。3つとも大切だと思いますが、特に2番は施設では学べないと思います。子供は親と家族との生活で自分が親になった時のモデルを学びます。親は子供自身の将来の姿に大きい影響を与えます。しかし親となる為のモデルがなかったり、大人との信頼を育てる機会がない子達は社会や他人と信頼関係持つことができるのでしょうか?
2010年6月14日
僕がどうやって日本語を勉強した Part 2
3年前, 日本に来てからあるあるごとがきっかけで本格的に漢字の勉強を始めました。その年の秋に学校で漢字検定を受けました。僕は自信を持ってたので8級ぐらい合格できろと思いました。でも、20点も取れなくて悔しかったです。僕は日本語能力試験の1級に合格するのが目標だったので、本当に勉強しないといけないなと思いました。春に5級に挑戦して合格しました。そして冬に日本語能力試験の2級に合格しました。
その一年間でどうやって勉強したか気になりますか?
僕は勉強方法を3つに分けて、それらを同時にやってました。
(1)読書:僕の大学時代に日本に来いてた頃、僕は日本の小1から中3までの国語の教科書を買いました。日本に来るまでただ本棚でほこりをかぶっていてましたがやっとその時、読み始めました。教科書を読みながら知らない漢字や単語を辞書で調べました。小6の教科書を終えてから小学レベルより上の本を買って読みました。今は東野圭吾の小説を読んでいます。
(2)漢字:僕は日本語能力試験の漢字のフラシュカードを買いました。そして国語の教科書で新しい漢字が出てくるとEXCELに入れ、訓と音読みと英語の意味を入力し、自分のための漢字データベースを作って、毎日漢字を書く練習をしました。
(3)日本語のクラス:住んでいた町の近くに交際交流会があって、外国人のための日本語の授業を行っていました。僕は1月にそれを始めました。日本語能力試験の1級を目指してたので、授業ではそのための読解や文法を学びました。週1回でしたが宿題とかもあったのでまじめにやってました。
これが僕の勉強方法でした。去年は JETプログラムの日本語講座の翻訳通訳コースを受講しました。今、僕は、Lang-8.comとツイッターとブログで日本語の書き読みの練習と、漫画やアニメで勉強しています。TEFLの通信授業を受けているのであまり漢字を勉強する余裕がないんです。でもTEFLが終わったらまた漢字の勉強を初めて日本語能力試験の1級に合格するつもりです。
皆さんも何かの目標に向って頑張ってください!!
その一年間でどうやって勉強したか気になりますか?
僕は勉強方法を3つに分けて、それらを同時にやってました。
(1)読書:僕の大学時代に日本に来いてた頃、僕は日本の小1から中3までの国語の教科書を買いました。日本に来るまでただ本棚でほこりをかぶっていてましたがやっとその時、読み始めました。教科書を読みながら知らない漢字や単語を辞書で調べました。小6の教科書を終えてから小学レベルより上の本を買って読みました。今は東野圭吾の小説を読んでいます。
(2)漢字:僕は日本語能力試験の漢字のフラシュカードを買いました。そして国語の教科書で新しい漢字が出てくるとEXCELに入れ、訓と音読みと英語の意味を入力し、自分のための漢字データベースを作って、毎日漢字を書く練習をしました。
(3)日本語のクラス:住んでいた町の近くに交際交流会があって、外国人のための日本語の授業を行っていました。僕は1月にそれを始めました。日本語能力試験の1級を目指してたので、授業ではそのための読解や文法を学びました。週1回でしたが宿題とかもあったのでまじめにやってました。
これが僕の勉強方法でした。去年は JETプログラムの日本語講座の翻訳通訳コースを受講しました。今、僕は、Lang-8.comとツイッターとブログで日本語の書き読みの練習と、漫画やアニメで勉強しています。TEFLの通信授業を受けているのであまり漢字を勉強する余裕がないんです。でもTEFLが終わったらまた漢字の勉強を初めて日本語能力試験の1級に合格するつもりです。
皆さんも何かの目標に向って頑張ってください!!
僕がどうやって日本語を勉強した Part 1
中学3年生で再び日本語の勉強を始めました。高校に入学してから日本語の授業を続けました。学校では全部で4年間日本語を勉強しました。授業は毎日あって、結構面白かったです。授業は会話が主でしたが、日本語をちゃんと使えるように書き方と読み方も勉強しました。高校3年の最後の課題は先生と1対1で、30分間話すことでした。多分日本の高校3年生のほとんどは英語を6年間以上勉強していてもできないと思います。
僕は物理か数学の先生になりたいという考えで大学を選びましたが、その大学では日本語を教えいていませんでした。その代わりに僕は自分で勉強をするために漢字のワークブックを買いました。でも、いまでも完成していません。。。。
僕が大学に入学した頃、弟は高校に入って日本語の授業を取りました。その頃アメリカではアニメの人気が上がって、インターネットからダウンロードしてパソコンで見れるようになっていました。僕と弟はこれにはまりました。その上、日本の漫画も読み始めました。僕のお父さんは中学校の日本語の先生で、毎年生徒を日本に2週間連れて行きます。お父さんに頼んで、日本で漫画を買ってきてもらいました。大学2年の夏に僕は再び日本にお父さんと一緒に来ました。お父さんと一緒に来ていた先生たちは日本語を全く知らなかったのでその先生たちの通訳の為に来ました。最初は結構緊張してましたが3日目にホームステーで中学校の数学の先生と日本の教育制度のことを日本語で話しました。その2週間で忘れいてた日本語が一気に戻ってきたと感じました (それは漢字以外ですが)。大学2年から日本にALTとして来る6年の間に、お父さんと4−5回日本に来ました。それ以外の勉強はほとんど字幕なしのアニメと漫画でした (ちなみに弟はこの間に1000冊以上の漫画コレクションを作りました)。
僕は何回も漢字を覚えようとしました。でもいつも失敗しました。どんなに勉強しても勉強の時間以外には漢字を読む機会(看板やテレビとか)が全然なかったので、2〜3週間がんばってもだんだんやる気がなくなり、2日か3日休むとまた最初からやり直さないといけなかった。僕はALTとして3年前日本に来ました。ここで本当に漢字の勉強を始めました。
僕は物理か数学の先生になりたいという考えで大学を選びましたが、その大学では日本語を教えいていませんでした。その代わりに僕は自分で勉強をするために漢字のワークブックを買いました。でも、いまでも完成していません。。。。
僕が大学に入学した頃、弟は高校に入って日本語の授業を取りました。その頃アメリカではアニメの人気が上がって、インターネットからダウンロードしてパソコンで見れるようになっていました。僕と弟はこれにはまりました。その上、日本の漫画も読み始めました。僕のお父さんは中学校の日本語の先生で、毎年生徒を日本に2週間連れて行きます。お父さんに頼んで、日本で漫画を買ってきてもらいました。大学2年の夏に僕は再び日本にお父さんと一緒に来ました。お父さんと一緒に来ていた先生たちは日本語を全く知らなかったのでその先生たちの通訳の為に来ました。最初は結構緊張してましたが3日目にホームステーで中学校の数学の先生と日本の教育制度のことを日本語で話しました。その2週間で忘れいてた日本語が一気に戻ってきたと感じました (それは漢字以外ですが)。大学2年から日本にALTとして来る6年の間に、お父さんと4−5回日本に来ました。それ以外の勉強はほとんど字幕なしのアニメと漫画でした (ちなみに弟はこの間に1000冊以上の漫画コレクションを作りました)。
僕は何回も漢字を覚えようとしました。でもいつも失敗しました。どんなに勉強しても勉強の時間以外には漢字を読む機会(看板やテレビとか)が全然なかったので、2〜3週間がんばってもだんだんやる気がなくなり、2日か3日休むとまた最初からやり直さないといけなかった。僕はALTとして3年前日本に来ました。ここで本当に漢字の勉強を始めました。
2010年6月13日
僕と日本語
僕は日本で生まれました。そして10年間ぐらい日本に住んでました。僕は普通の幼稚園に通って小学校はインターナショナルスクールに通いました。だから僕には英語と日本語は両方ナチュラルでした。僕が10歳になる直前に家族はアメリカに引っ越しました。最初はただ一年間だけ行く予定でしたが、家族がまた日本に戻ることはありませんでした。
アメリカに引っ越した頃は、日本人の4年生のレベルの日本語を使えました。引っ越してから僕はどんどん日本語を忘れていきました。最初に忘れたのは日本語の書き方、特に漢字(ぜんぜん日本語を書かなかったから)。その後日本語の読み方を忘れました。家では少し日本語を話しましたし、僕と兄弟の大好きな日本のテレビ番組をVHS(アメリカに来る前に録音した)で見てたので話す能力はけっこう後退しましたが全て忘れませんでした。
僕が12歳の時、姉と二人で日本に一ヶ月ぐらい来ました、継ぎに来たのは大学に入ってからでした。中学校3年生になった時、僕は近くの高校で日本語を学び始めました。10年間日本で住んでたけど「あいうえお」を書けなくて今思うととても恥ずかしいです。クラスの中では一番会話が上手でなまりがなかったけど漢字はとても下手でした。
僕は、こんな状況で日本語の勉強のを再び始めました。
アメリカに引っ越した頃は、日本人の4年生のレベルの日本語を使えました。引っ越してから僕はどんどん日本語を忘れていきました。最初に忘れたのは日本語の書き方、特に漢字(ぜんぜん日本語を書かなかったから)。その後日本語の読み方を忘れました。家では少し日本語を話しましたし、僕と兄弟の大好きな日本のテレビ番組をVHS(アメリカに来る前に録音した)で見てたので話す能力はけっこう後退しましたが全て忘れませんでした。
僕が12歳の時、姉と二人で日本に一ヶ月ぐらい来ました、継ぎに来たのは大学に入ってからでした。中学校3年生になった時、僕は近くの高校で日本語を学び始めました。10年間日本で住んでたけど「あいうえお」を書けなくて今思うととても恥ずかしいです。クラスの中では一番会話が上手でなまりがなかったけど漢字はとても下手でした。
僕は、こんな状況で日本語の勉強のを再び始めました。
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